沈み掛かっていた。如何《いか》にも壮大な、ベエトホオフェンの音楽のような景色である。それを見ようと思って、己は海水浴場に行《ゆ》く狭い道へ出掛けた。ふと槌《つち》の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行《ゆ》く階段を、エルリングが修覆している。
 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇《ひさし》に手を掛けたが、直《す》ぐそのまま為事を続けている。暫《しばら》く立って見ている内に、階段は立派に直った。
「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。
「ええ。毎晩いたします。」
「泳げるかね。」
「大好きです。」
 なぜ夜海水浴をするのか問おうかと思ったが止めた。多分昼間は隙《すき》がないのだろう。
「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。」
「いいえ。ここにいます。」
「ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。」
「ええ。」
「お前さんの外にも、冬になってあの家にいる人があるかね。」
「わたくしの外には誰もいません。」
 己はぞっとしてエルリングの顔を見た。「溜《た》まるまいじゃないか。冬寒くなってから、こんな所にたった一人でいては。」
 エルリング
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