ければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺《かいへん》の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷《こきょう》のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃《このごろ》の六月の夜《よ》の薄明りの、褪《さ》めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微《かす》かに光り止《や》まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風《あらし》の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色《ぎんねずみいろ》に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国《ほっこく》の謎《なぞ》がある。静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱《ゆううつ》とがある。
己は静かな所で為事《しごと》をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草《つるぐさ》の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前《ごぜん》であった。己の部屋の窓を叩《たた》いたものがある。
「誰《たれ》か」と云《い》って、その這入《はい》った男を見て、己は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−
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