た目を、怯《おそ》れ気《げ》もなく、大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、己を見ながら、こう云った。
「その刑期を済ましたのかね。」
「ええ。わたくしの約束した女房を附け廻《まわ》していた船乗でした。」
「そのお上《かみ》さんになるはずの女はどうなったかね。」
 エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その背後《うしろ》は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」
「それはよほど前の事かね。」
「さよう。もう三十年程になります。」
 エルリングは昂然《こうぜん》として戸口を出て行《ゆ》くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。
 暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。
 己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事を思ったのである。
 丁度|浮木《うきき》が波に弄《もてあそ》ばれて漂い寄るように、あの男はいつかこの僻遠《へきえん》の境《さかい》に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、ある事に出会って、それから沈思
前へ 次へ
全17ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング