に接している。カツテガツトの波が岸を打っている。そこを散歩して、己は小さい丘の上に、樅《もみ》の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を掩《おお》い蔽《かく》すような工合《ぐあい》に小屋に迫っている。木の枝を押し分けると、赤い窓帷《カアテン》を掛けた窓硝子《まどがらす》が見える。
家の棟に烏《からす》が一羽止まっている。馴《な》らしてあるものと見えて、その炭のような目で己をじっと見ている。低い戸の側《そば》に、沢《つや》の好《い》い、黒い大きい、猫が蹲《うづくま》って、日向《ひなた》を見詰めていて、己が側へ寄っても知らぬ顔をしている。
そこへ弦《つる》のある籐《と》の籠《かご》にあかすぐりの実を入れて手に持った女中が通り掛かったので、それにこの家は誰が住まっているのだと問うた。
「エルリングさんの内です」と、女中が云った。さも尊敬しているらしい調子であった。
エルリングに出逢《であ》って、話をし掛けた事は度々あったが、いつも何か邪魔が出来て会話を中止しなくてはならなかった。
ある晩波の荒れている海の上に、ちぎれちぎれの雲が横《よこた》わっていて、その背後に日が沈み掛かっていた。如何《いか》にも壮大な、ベエトホオフェンの音楽のような景色である。それを見ようと思って、己は海水浴場に行《ゆ》く狭い道へ出掛けた。ふと槌《つち》の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行《ゆ》く階段を、エルリングが修覆している。
己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇《ひさし》に手を掛けたが、直《す》ぐそのまま為事を続けている。暫《しばら》く立って見ている内に、階段は立派に直った。
「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。
「ええ。毎晩いたします。」
「泳げるかね。」
「大好きです。」
なぜ夜海水浴をするのか問おうかと思ったが止めた。多分昼間は隙《すき》がないのだろう。
「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。」
「いいえ。ここにいます。」
「ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。」
「ええ。」
「お前さんの外にも、冬になってあの家にいる人があるかね。」
「わたくしの外には誰もいません。」
己はぞっとしてエルリングの顔を見た。「溜《た》まるまいじゃないか。冬寒くなってから、こんな所にたった一人でいては。」
エルリング
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