っている。ただ前掛だけはしていない。何か書き物をしているのである。書いている紙は大判である。その側には厚い書物が開けてある。卓《たく》の上のインク壺《つぼ》の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た詫《わび》を云うのを、真面目な顔附《かおつき》で聞いていたが、エルリングが座を起《た》ったので、鳥は部屋の隅へ飛んで行った。
エルリングは椅子《いす》を出して己を掛けさせた。己はちょいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヴィグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。後《あと》に言った三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリングはドイツを読むと見える。書物の選択から推して見ると、この男は宗教哲学のようなものを研究しているらしい。
大きな望遠鏡が、高い台に据えて、海の方へ向けてある。後《のち》に聞けば、その凸面鏡は、エルリングが自分で磨《す》ったのである。書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。卓《たく》の上には分析に使う硝子瓶《がらすびん》がある。六分儀《ろくぶんぎ》がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もあるという事が分かる。家具は、部屋の隅に煖炉《だんろ》が一つ据えてあって、その側に寝台《ねだい》があるばかりである。
「心持の好さそうな住まいだね。」
「ええ。」
「冬になってからは、誰が煮炊《にたき》をするのだね。」
「わたしが自分で遣《や》ります。」こう云って、エルリングは左の方を指さした。そこは龕《がん》のように出張《でば》っていて、その中に竈《かまど》や鍋釜《なべかま》が置いてあった。
「この土地の冬が好きだと云ったっけね。」
「大好きです。」
「冬の間に誰か尋ねて来るかね。」
「あの男だけです。」エルリングが指さしをする方を見ると、祭服を着けた司祭の肖像が卓《たく》の上に懸かっている。それより外には※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]額《へんがく》のようなものは一つも懸けてないらしかった。「あれが友達です。ホオルンベエクと云う隣村の牧師です。やはりわたしと同じように無妻で暮しています。それから余り附合をしないことも同様です。年越の晩には、極《き》まって来ますが、その外の晩にも、冬になるとちょいちょい来
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