て一しょにトッジイを飲んで話して行きます。」
「冬になったら、この辺《へん》は早く暗くなるだろうね。」
「三時半位です。」
「早く寝るかね。」
「いいえ。随分長く起きています。」こんな問答をしているうちに、エルリングは時計を見上げた。「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣るのです。」
己は主人と一しょに立ち上がった。そして出口の方へ行《ゆ》こうとして、ふと壁を見ると、今まで気が附かなかったが、あっさりした額縁に嵌《は》めたものが今一つ懸けてあった。それに荊《いばら》の輪飾《わかざり》がしてある。薄暗いので、念を入れて額縁の中を覗くと、肖像や画《え》ではなくて、手紙か何かのような、書いた物である。己は足を留《と》めて、少し立ち入ったようで悪いかとも思ったが、決心して聞いて見た。
「あれはなんだね。」
「判決文です。」エルリングはこう云って、目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、落ち着いた気色《けしき》で己を見た。
「誰の。」
「わたくしのです。」
「どう云う文句かね。」
「殺人犯で、懲役五箇年です。」緩やかな、力の這入った詞で、真面目な、憂愁を帯びた目を、怯《おそ》れ気《げ》もなく、大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、己を見ながら、こう云った。
「その刑期を済ましたのかね。」
「ええ。わたくしの約束した女房を附け廻《まわ》していた船乗でした。」
「そのお上《かみ》さんになるはずの女はどうなったかね。」
エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その背後《うしろ》は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」
「それはよほど前の事かね。」
「さよう。もう三十年程になります。」
エルリングは昂然《こうぜん》として戸口を出て行《ゆ》くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。
暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。
己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事を思ったのである。
丁度|浮木《うきき》が波に弄《もてあそ》ばれて漂い寄るように、あの男はいつかこの僻遠《へきえん》の境《さかい》に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、ある事に出会って、それから沈思
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