にいたして、更けない用心をいたしていますの。でも夫の心は繋ぎ留めることが出来ませんでしたの。

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 翌日の午後二時半にピエエル・オオビュルナンは自用自動車の上に腰を卸《おろ》して、技手に声を掛けた。「ド・セエヴル町とロメエヌ町との角までやってくれ」
 返事はきのうすぐに出してある。それは第一に、平生紳士らしい行動をしようと思っていて、近ごろの人が貴夫人に対して、わざとらしいように無作法をするのに、心から憤っていたからである。第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その背後に別に何物かが潜んでいるように感じたからである。無論尋常の密会を求める色文では無い。しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁《のが》れて、過去の記念の甘みが味いたいと云う欲望をほのめかしている。男子の貞操を守っていない夫に対して、復讐がしてやりたいと云う心持が、はっきり筆に書いてはないが、文句の端々に曝露している。それに受身になって運命に左右せられていないで、何か閲歴がしてみたいと云う女の気質の反抗が見えている。要するにど
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