田舎
マルセル・プレヴォー Marcel Prevost
森鴎外訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脣《くちびる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|割愛《かつあい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]マドレエヌ

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔bohe'm〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際ある寺院で使っていたロオマ時代の器具であった。卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。
 ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす心持もあるが、たしかに尊敬する意味もある。この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人指し指を器械的に脣《くちびる》の辺まで挙げてまた卸《おろ》す。しかし目は始終紙を見詰めている。
 この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、自信力に富んでいるらしい。顔は賢そうで、煎《せん》じ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適《かな》っているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様式によって、主人の趣味に合うように整頓してある。器具は特別に芸術家の手を煩わして図案をさせたものである。書架は豊富である。Bibelots と云う名の附いている小さい装飾品に、硝子鐘《しょうししょう》が被《かぶ》せてある。物を書く卓の上には、貴重な文房具が置いてある。主人ピエエルが現代に始めて出来た精神的貴族社会の一員であると云うことは、この周囲を見て察せられる。あるいは精神的富豪社会と云った方が当たっているかも知れ
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