ネい。それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じような思想を懐抱して、著作に従事している文士の形づくっている一階級である。こう云う文士はぜひとも上流社会と同じような物質的生活をしようとしている。そしてその目的を遂げるために、財界の老錬家のような辣腕《らつわん》を揮《ふる》って、巧みに自家の資産と芸能との遣繰《やりくり》をしている。昔は文士を 〔bohe'm〕 だなんと云ったものだが、今の流行にはもうそんな物は無い。文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つもあったが、それがたいてい閉店してしまって、そこに出入していた人達は、今では交際社会の奢《おご》った座敷に出入している。新進文士でも二三の作が少し評判がいいと、すぐに住いや暮しを工面する。ちょいと大使館書記官くらいな体裁にはなってしまう。「当代の文士は商賈の間に没頭せり」と書いた Porto−Riche は、実にわれを欺かずである。
ピエエル・オオビュルナンは三十六歳になっている。鬚を綺麗に剃っている。指の爪と斬髪頭とに特別の手入をしている。衣服は第一流の裁縫師に拵《こしら》えさせる。冷水浴をして sport に熱中する。昔は Monsieur de Voltaire, Monsieur de Buffon だなんと云って、ロオマンチック派の文士が冷かしたものだが、ピエエルなんぞはたしかにあのたちの貴族的文士の再来である。
オオビュルナン先生は最後に書いた原稿紙三枚を読み返して見て、あちこちに訂正を加え、ある詞《ことば》やある句を筆太に塗沫《とまつ》した。先生の書いているのは、新脚本では無い。自家の全集の序である。これは少々難物だ。
余計な謙遜はしたくない。骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲《えんきょく》にほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。
ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱《お》いた。ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠《あくび》を噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。
ピエエルは郵便を選《え》り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙《せ》わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしな
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