させるより外には策はありません。しかもなる丈早く満足させるですね。どうせそれまでは気の落ち着くことはないのですから。」
「所がお前欲望にもいろいろあるからな。若し自殺したいと云ふ欲望でも起つたとすると。」
「それですか。それもわたしは度々経験したのですが。」
「したのだがどうだ。」
「したのですが、失敗しました。わたしは鴉片《あへん》を二度飲みました。しかも二度目には初の量の三倍を飲みましたが、それでも足りなかつたと見えます。」
「そんな事を。」
「まあ、聞いて下さい。二度目の時は可笑《をか》しうございましたよ。たしか十四時間眠つて、跡で十二時間吐き続けました。往来で女の物を売る声がしても、小僧が口笛を吹いても、家の中で誰かゞ戸をひどく締めても、わたしはすぐにそれに感じて吐いたのです。そのうちわたしの上の部屋に住んでゐる学生が、あのピツコロと云ふ小さい横笛を吹き始めました。するとわたしは止所《とめど》なしに吐きました。なんでも三十分ばかり倒れてゐて、笛の調子につれて吐いたのです。ぴいひよろひよろと吐いたのです。大ぶ話が横道に這入りましたが。」
「いや。もう己は其上の事を聞きたくないのだ。」
「でも聞いて下さらなくては、わたしが好かつたか悪かつたか分らないぢやありませんか。そこでわたしはキスをしようと思つたのです。心を落ち着かせるにはキスをせずには置かれないと思つたのです。そこで例の長椅子の上で工夫したのですね。或日の事、その二人の尼さん達がお城の所の曲角を遣つて来る時、わたしは道の砂の上に時計を落して置きました。すると年を取つたのが見付けて拾ひました。わたしはそこへ駆け付けて、長々とフランス語で礼を言ひました。其間|傍《そば》にゐる若いのは、ちつともわたしの方を見ません。一度も見ません。多分アンチオツフス王の事をでも考へて立つてゐたのでせう。そこでわたしもどうもその若いのに詞を掛けるわけには行かなかつたのです。わたしは只柔い頬つぺたを見たり、睫を見たり、特別に念入に口を見たりしてゐました。そのうちわたしは気の違つたやうな心持になりました。そこで暇乞《いとまごひ》をしようと思ふと、どうした拍子か、わたしのステツキが股の間に插まつたので、わたしは二人の尼さんの前でマズルカを踊るやうな足取をしました。年を取つたのは口を幅広くして微笑する。若いのの口の角《すみ》にも、ちよい
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