に興味を感じて来たらしい。
「さあ。其時すぐにはわたしも、どんな様子だと、すぐには思ひ浮べることが出来ませんでした。わたしには只目の前に其女の唇がちらついてゐました。そこでわたしは兎に角立ち上がつて、跡に附いて行きました。もうへツケル先生の事も猩々の事も忘れてゐたのですね。矢つ張人間は人間同士の方が一番近い間柄なのです。道の行止まりまで往くと、尼さん達はこつちへ引き返して来ます。わたしは体がぶるぶる震え出したので、そこのベンチに掛けて、二人を遣り過しました。わたしは年を取つた尼さんの方はちつとも見ないで、只若い方をぢつと見詰めてゐました。暗示を与へると云ふ風に見たのです。するとその若い尼さんが上瞼を挙げてわたしを見ました。わたしを見たのですね。兄いさん。クツケルツケルツク。クツケルツケルツク。」
「それはなんだい。」兄は心配らしく問うた。
「それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音を以てする外ありません。余計な事を言ふやうですが、これもダアヰニスムの明証の一つです。兄いさん。想像して見て下さい。尼さんの被《かぶ》る白い帽子の間から、なんとも云へない、可哀らしい顔が出てゐるのです。長い、黒い睫毛が、柔い、琥珀色をした頬の上に垂れてゐます。それは一旦挙げた上瞼を、すぐに又垂れたからです。それに其唇と云つたら。」
「お前なんとか詞を掛けたのかい。」
「いいえ。わたしは只其唇を見詰めてゐました。」
「どんなだつたのだい。」
「ええ。野茨《のばら》の実です。二粒の野茨の実です。真つ赤に、ふつくりと熟して、キスをせずにはゐられないやうなのです。その旨さうな事と云つたら。」
「でもまさかキスをしはしなかつただらう。」かう云つた兄は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、額には汗を出してゐた。
「いいえ。其時はどうもしはしませんでした。併しどうしてもあれにキスをせずには置くまいと、わたしは心に誓ひました。ああした口はキスをするための口で、祈祷をするための口ではないのですから。」
「そんな時は、己《おのれ》に克《か》たなくては。」兄は唐突なやうにかう云つて、手に持つてゐた杖を敷石の上に衝き立てた。
「無論です。実際わたしも其日の午後には長椅子の上に横になつてゐて、克己の修行をしました。所がどうもああした欲望の起つた時は、実際それを満足
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