で聞かせ給え」と、私は云った。
 F君は少し間の悪そうに、低い声で五六行読んだ。声は低いが発音は好い。すらすらと読むのを私は聞いていて、意味をはっきり聞き取ることが出来た。
「もう好いから、君その意味を言って聞かせ給え」と、私は云った。
 F君は殆ど術語のみから組み立ててある原文の意味を、苦もなく説き明かした。
 私は再び驚いた。F君は狂人どころでは無い。君の自信の大きいのは当然のことである。私は云った。
「それだけ読めれば、君と僕との間に、何の軒輊《けんち》すべき所も無いね。」
「なに。そんな事はありません。追々質問します」と、F君は云った。
 これでF君が漫《みだ》りに大言|荘語《そうご》したのでないと云う事だけはわかった。しかしそれ以外の事は、私のためには総て疑問である。私はこの疑問を徐々に解決しようと思った。只その中に急に知らなくてはならぬ事が一つある。それはF君の生活状態である。身の上である。
 私はこう云った。「それは君のドイツ語を研究する相談相手になれと云うことなら、僕はならないことはない。ところで君はどうして小倉で暮して行く積りだ。」こう云ったが、F君は黙っている。私は
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