ドイツ語の研究を思い止まって、房州辺の海岸へ転地療養に往くと云うことが書いてあった。私はすぐに返事を遣って慰めた。これは私の手紙としては、最《もっとも》長い手紙で、世間で不治の病と云うものが必ず不治だと思ってはならぬ、安心を得ようと志すものは、病のために屈してはならぬと云うことを、譬喩談《ひゆだん》のように書いたものであった。私は安国寺さんが語学のために甚だしく苦しんで、その病を惹き起したのではないかと疑った。どんな複雑な論理をも容易《たやす》く辿《たど》って行く人が、却って器械的に諳《そら》んじなくてはならぬ語格の規則に悩まされたのは、想像しても気の毒だと、私はつくづく思った。
 満州で年を越して私が凱旋《がいせん》した時には、安国寺さんはもう九州に帰っていた。小倉に近い山の中の寺で、住職をすることになったのである。
 F君は相変らず小石川に住んで、第一高等学校に勤めていた。君と私との忙しい生活は、互に訪問することを許さぬので、私は時々|巣鴨《すがも》三田線の電車の中で、君と語を交えるに過ぎなかった。
 それから四五年の後に私は突然F君の訃音《ふいん》に接した。咽頭《いんとう》の癌腫
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