扱にはしなかったのである。この金の事はその後私も口に出さず、君も口に出さずにしまった。私は返して貰う事を予期しなかったのである。君は又そんな事に拘泥せぬ性分であったのである。これは横著なのでも、しらばっくれたのでもないと、私は思っていた。年久しく交際した君が、物質的に私を煩《わずら》わしたのは只これだけである。
程なくF君は帰って来て、鳥町《とりまち》に下宿した。そしてこれまでのようにドイツ語の教師をしていた。夏の日に私は一度君を尋ねて、ラムネを馳走せられたことがある。
年の暮に鍛冶町の家主が急に家賃を上げたので、私は京町へ引き越した。※[#「糸+樔のつくり」、第4水準2−84−55]車《いとぐるま》の音のする家から、太鼓の音のする家に移ったのである。京町は小倉の遊女町の裏通になっていて、絶えず三味線と太鼓が聞えていた。この家へもF君は度々話しに来た。
又年が改まった。私が小倉に来てから三年目である。八月の半頃に、F君は山口高等学校に聘《へい》せられて赴任した。
その又次の年の三月に、私は役が変って東京へ帰った。丁度四年目に小倉の土地を離れたのである。
――――――
前へ
次へ
全27ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング