甘んじ受けて、却って面白く感じた。
 殆ど毎日逢って、時としては終日一しょにいることさえあるので、F君と私との話はドイツ語の事や哲学の事には限らぬようになった。或る日私は君にこう云う事を言った。私はこの土地で役をしていて多くの人に知られている。その人達がもうF君をも知って来た。そして二人を兄弟だと云うそうである。本通の雑貨店徳見に往ったら、「弟御さんも店へお出《いで》になりました」と、主人が云った。誰の事かと思って問えば、君の事である。同国ではあるが、親類ではないと、私は答えた。主人は不審に思うらしい様子で、「へえ、あんなに好く肖《に》てお出になって」と云った。私は君に似ているだろうか、君はどう思うと云って、F君を見た。
 F君がその時、それは他人の空似と云うことが随分有るものと見えると云って、こういう話をした。君が尾の道に泊った晩の事である。中庭を囲んだ二階の一方にある座敷に、君は入れられた。すると二階の向側に泊った客が、芸者を大勢呼んで大騒をしていた。君は無聊《ぶりょう》に堪えぬので、廊下に出て向うを見る。向うでも芸者が一人出て、欄干に手を掛けてこっちを見る。その芸者が連《つれ》の芸者を呼び出す。二人で何かささやいてこっちを見る。こっちで見るのは好いが、向うから見られるのは厭《いや》だと思って、君は部屋に這入《はい》った。向側の騒ぎは夜遅くなるまで続いた。君は床に這入って、三味線《さみせん》の声をやかましく思いつつ寐入《ねい》った。暫く寐ているうちに、部屋に人が来たように思って目を醒《さ》ました。見れば芸者が来て枕元にすわっている。君は驚いて起き上がった。そして「どうしたのだ」と問うと、「少し伺いたい事がございます」と云う。君は立って夜具を畳んだ。それから芸者に用事を尋ねた。芸者の口上はこうであった。自分は向側の座敷に、大勢来て泊っている芸者の中《うち》の一人である。この土地の生れで、兄が一人あった。それが家出をして行方が知れずにいる。然《しか》るに先刻向側からあなたを見て、すぐにその兄だと思った。分れてからだいぶ年が立ったが、毎日逢いたい逢いたいと思うので、こっちでは忘れずにいる。あなたを見た時、すぐに馳けて来ようかと思ったが、人目があるのでこらえていた。若し人違《ひとちがえ》であったら、許して貰いたい。恋しい兄だという思う人を見たのに、逢って物を言わずに別れ
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