さんは私に座布団を出して、こう云った。
「はてな。工面が悪いのかしら。」独言《ひとりごと》のように私は云った。
「そうじゃございません。お泊になってから少し立ちますと、今なら金があるからと仰《おっし》ゃって、今月末までの勘定を済ませておしまいになった位でございます。」もう十一月に入っているから、F君は先月青年団から貰った金で前払をしたのである。
とにかく逢って見ようと思って、私は二階へ上がった。立見の家では、奥の離座敷に上等の客を留めることにしている。次は母屋《おもや》の中庭に向いた二階である。表通に向いた二階の小部屋は、細かい格子の窓があって、そこには客を泊らせない。F君は一番安い所で好いと云って、そこに落ち著いた。
「F君、いるかね」と云って声を掛けると、君は内から障子を開けた。なる程フランネルのシャツの上に湯帷子《ゆかた》を著ている。細かい格子に日を遮《さえぎ》られた、薄暗い窓の下《もと》に、手習机の古いのが据えてあって、そこが君の席になっている。私は炭団《たどん》の活けてある小火鉢を挟《はさ》んで、君と対座した。
この時すぐに目を射たのは、机の向側に夷《えびす》麦酒《ビイル》の空箱が竪《たて》に据えて本箱にしてあることであった。しかもその箱の半以上を、茶褐色の背革の大きい本三冊が占めていて、跡は小さい本と雑記帳とで填《う》まっている。三冊の大きい本は極《ごく》新しい。薄暗い箱から、背革に記してある金字が光を放っている。私は首を屈《かが》めて金字を読もうとした。
「Meyer の小ですよ」と、F君が云った。
「そうか。ひどく立派な本になったね。それに僕の持っているのは二冊物だが。」
「それは古いのです。これは南江堂に来たのを見て置いたから、郵便|為換《かわせ》を遣《や》って取り寄せました。」
「しかしこんなに膨脹《ぼうちょう》しては、名は小でも、邪魔になるね。なぜわざわざ取り寄せたのだ。」
「なに、教師をしていると、人名や地名の説明を求められますから、この位な本がないと、心細いのです。」
F君と私とは会話辞書の話をした。Meyer と Brockhaus との得失を論ずる。こう云うドイツの本が Larousse や Britannica と違う所以《ゆえん》を論ずる。俗書が段々科学的の書に接近して来る風潮を論ずる。とうとう私はランプの附くまでいて帰った。
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