てた島村抱月君も、蒲團を評して、醜のことを書かないで、醜の心を書いたと云つてゐる。祝盃の評はまだ拜見しない。醜の心は助兵衞の心である。
兎に角事柄は惡い。併しこの事柄をけしからんと云ふのが、相手の假設人物である爲めに、別に氣恥かしい筈もない代りには、それを書いたのをけしからんと云ふのは、書いた動機、書いた Beweggrund の評になつて、作品の評にならない。人の行爲の動機はわからないものだと Kant が云つてゐる。藝術家の物を作る動機も恐らくはわかるまい。序だから云ふが、人間の心は醜惡なものだと前極《まへぎめ》をして置いて、醜惡でない心を書くのを pose だとするのも、矢張動機の穿鑿で、あぶない話だ。醜惡の心を書く poseur も無いには限るまい。
も一つ今の日本人に闕けてゐる詞に就いて簡單に話さう。
外でもない。〔Sich la:cherlich machen〕 といふ獨逸語である。尤も獨逸には限らない。Pose, poseur なんぞといふ佛語を必要上から出したから、佛語で同じ事を言つて見れば、se rendre ridicule である。
〔La:cherlic
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング