まり、気の利かない青年が初恋をしていると云う素振をなさいましたのですね。
男。なるほど。なるほど。
貴夫人。そのうちわたくしが奥さんに、「ねえ、テレエゼさん、わたし今夜はもう帰ってよ」と云うと、あなたがその奥さんの側を離れて、いなくなっておしまいなさいましたの。それからわたくしが料理屋の門口から往来へ出て、辻馬車を雇おうと思いますと、あなたが出し抜けにわたくしの側へ現れておいでなすったのですね。
男。ええ。そうでした。
貴夫人。そして内へ送って往ってやろうとおっしゃったのですね。
男。ええ。そうです。
貴夫人。それを伺った時、わたくし最初は随分気違染みた事をなさると思って笑いましたの。それに人の思わくをお考えなさらないにも程があるとも思いましたの。そのくせわたくしとうとうおことわりは申さなかったのですね。そのおことわり申さないには、理由が二つございました。一つはあなたがいかにも無邪気に、初心《うぶ》らしくおっしゃったので、「おや、この方はどんな途方もない事をおっしゃるのだか、御自身ではお分かりにならないのだな」と存じましたの。それから今一つはまあ、なんと申しましょうか。わたくしあなたに八分通り迷っていましたもんですから。
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男。えええ。なーんーでーすーと。
貴夫人。ええ。全くでございましたの。
男(目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く。)あのあなたがわたくしに。
貴夫人。ですけれど本当に迷っていたと申すのではございませんよ。八分通りでございましたの。まあ、これから先は男の方の出ようでどうにでもなると云うところまで来ていましたのですね。女と云うものはある時期の来るまで、男の方のなさる事をじっとして見ていて、その時期が来ると、突然そう思いますの。「もうこうなれば、これから先はこの人のするままになるより外無い」と思いますの。
男。そしてあの時そう思いなすったのですか。
貴夫人。ええ。
男。そしてなぜそれをわたくしに言って下さらなかったのです。
貴夫人。ですけれどそれを申さないのが女の心理上の持前なのでございますわ。
男。ああ。わたくしはなんと云う馬鹿でしょう。
貴夫人。(溜息を衝く。)まあ、それはそうといたして置いて、あとをお話申しましょ
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