くしの身の上に関係した事なのですか。
貴夫人 大いに関係していますの。
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(間。男は思案に暮れいる。)
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男。どうもちっとも思い当る事がありませんね。
貴夫人。それは思い出させてお上げ申しますわ。ですけれど内証のお話でございますよ。
男。それは内証のお話と内証でないお話ぐらいはわたくしにだって。
貴夫人。いいえ。そのお話申す事柄が内証だと申すのでございませんわ。事柄だけならいくらお話なすっても宜しゅうございますの。ただそれがいつの事だと云うことが内証でございますの。きっとでございますよ。
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(男黙りて誓の握手をなす。)
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貴夫人。そのお話は十年前の事でございますの。場所はこのブダペストで、時は十月。
男。どうも分かりませんな。
貴夫人。まあお聞きなさいましよ。十年前にあなたとある所の晩餐会で御一しょになりましたの。その時はあなたがまだ栗色の髪の毛をしていらっしゃいました。わたくしもあの時から見ると、髪の色が段々明るくなっています。晩餐を食べましたのは、市外の公園の料理店でございました。ちょうど宅はベルリンに二週間ほど滞留しなくてはならない用事がありましたので、わたくしはひとりでその宴会へ参りました。夜なかが過ぎて一時になりましたころ、わたくしは雑談をいたしているのが厭になって来ましたので、わたくしどもを呼んで下すった奥さんに暇乞をいたしましたの。その時あなたはその奥さんの側に立っていらっしゃって、わたくしの顔をじっと見ていらっしゃいましたの。
男。その時の事ですか。もう分かりました。
貴夫人。まあ、聞いていらっしゃいまし。その席であなたは最初からわたくしをひどい目に逢わせていらっしゃいましたの。そう。ちょうど三週間ばかり前からあなたわたくしを附け廻していらっしゃったのです。それでいてわたくしに何もおっしゃるのではございません。ただ黙って妙な顔をしてわたくしを困らせていらっしゃいましたの。顔ばかりではございませんの。妙な為打《しうち》をなさるのですもの。お据わりになったかと思えば、すぐお立ちになる。またお据わりになる。戸の外へおいでになったかと思えば、すぐ這入《はい》っていらっしゃる。つ
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