うね。さっき申しましたでしょう。最初はあなたが送ってやろうとおっしゃったのを、乱暴だと思ったのに、とうとうおことわり申さなかったと申しましたでしょう。実際最初はどういたしてよろしいか分からなかったのでございますね。そのうちわたくしふらふらと馬鹿な心持になって来まして、つい「願います」と申してしまいましたの。その時あなたがなんとおっしゃったとお思いなさいますの。「そんなら馬車をそう言って来ましょう」とおっしゃいました。あれはまずうございましたのね。あれがあなたの失錯の第一歩でございましたわ。
男。なぜですか。
貴夫人。お分かりになりませんの。あなたが馬車を雇いに駆け出しておいでになったあとに、わたくしは二分間ひとりでいました。あなたはわたくしに考える余裕をお与えなさいましたのですわ。その間にわたくしが後悔しておことわりをせずに、我慢していましたのは、よっぽどあなたに迷っていた証拠でございますわ。一体冷却する時間をお与えなさるなんと云うことは、女に取って、一番堪忍出来にくいのでございますけれど。そのうち馬車が参りましたのね。
男。ええ、わたくしは一頭曳の馬車を雇って来たのでした。
貴夫人。そうでした。それでもよくあの馬車が一頭曳だったのを覚えていらっしゃいましたことね。そこが肝心なのでございますわ。二頭曳でなくって、一頭曳だったのが。
男。でも一頭曳しか無かったのです。
貴夫人。いいえ。あんな時はどうしても二頭曳のを見附けていらっしゃらなくてはならないのです。あなたそれからどうなすったか覚えていらっしゃって。
男。それから御一しょに乗りました。
貴夫人。そうでした。そしてわたくしの内まで二十五分間その馬車のうちに御一しょにいましたのでございます。あなた一頭曳と二頭曳とはどれだけ違うか御承知。
男。いや。分かりませんなあ。
貴夫人。第一。一頭曳の馬車は窓|硝子《ガラス》ががちゃがちゃ鳴って、並んで据わっている人の話が聞えませんでしょう。それから一頭曳の馬車に十月に乗りますと、寒くて気持が悪いでしょう。二頭曳ですと、車輪だって窓硝子だって音なんぞはしません。車輪にはゴムが附いていて、窓枠には羅紗《らしゃ》が張ってあります。ですから二頭曳の馬車の中はいい心持にしんみりしていて、細かい調子が分かります。平凡な詞に、発音で特別な意味を持たせることも出来ます。あの時あなたわたくしに
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