、白髪を一本並べにして祖母子《おばこ》に結つたのである。しかもそれが赤いちやん/\こを著てゐる。左の手に桝をわき挾んで、ずん/\座敷の真中まで出る。すわらずに右の手の指尖を一寸畳に衝いて、僕に挨拶をする。僕はあつけに取られて見てゐる。「福は内、鬼は外。」お婆あさんは豆を蒔きはじめた。北がはの襖を開けて、女中が二三人ばら/\と出て、翻《こぼ》れた豆を拾ふ。お婆あさんの態度は極めて活々としてゐて気味が好い。僕は問はずして新喜楽のお上なることを暁つた。
 Nietzsche に芸術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝をするやうに、芸術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。芸術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。
 暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である。僕は豆打の話をした。「さうか。それは面白い。みんなが来てからもう一遍遣らして遣る。」
 それからみんなが来た。いづれも福々しい人達であつた。選抜の芸者が客の数より多い程押し込んできた。
 二度目の豆打は余り注意を惹かずにしまつた。
 話はこれ丈である。批評家に衒学の悪口といふのを浚ふ機会を与へる為めに、少し書き加へる。
 追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬に似寄つた風俗のあつた事である。羅馬人は死霊を lemur と云つて、それを追ひ退ける祭を、五月頃真夜なかにした。その式に黒豆を背後へ投げる事があつた。我国の豆打も初は背後へ打つたのだが、後に前へ打つことになつたさうだ。
[#地から1字上げ](明治四十二年五月)



底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館
   1985(昭和60)年5月1日初版発行
   1992(昭和67)年8月20日第2刷発行
初出:「東亜之光」
   1909(明治42)年5月
入力:村上聡
校正:野口英司
1998年5月11日公開
2005年4月30日修正

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