車の中で読む本を用意してゐるが、四時過の電車ではめつたに読めない。本願寺前で降りる。大抵此辺だらうと思つて、堀ばたの方へ向いて、一軒一軒見て往く。小綺麗な家に堀越といふ標礼がある。二三度逢つた事があるので、こゝにゐるなと思ふ。長靴をよごすまいと思つて飛び/\歩く。
とう/\新喜楽を見付けた。堀ばたの通に出る角の家であつた。格子戸の前で時計を見る。馬鹿に早い。まだ四時三十分だから、約束の時間までは、一時間半もある。格子戸をはいる。中は叩きで、綺麗に洗つてある。泥靴の痕が附く。嫌な心持がする。早過ぎることわりを言つて上ると、二階へ案内せられる。東と南とを押し開いた、縁側なしの広間である。西が床の間で、北が勝手からの上り口に通ずる。時刻になるまで気長に待つ積で、東南の隅に胡坐をかいた。家が新しい。畳が新しい。畳に焼焦しが一つないのは、此家に来る客は特別に行儀が好いのか知らんなぞと思ふ。兎に角心持が好い。女中が茶と菓子を運んで来る。笑つたり余計な事を言つたりせずに下つて行くのが気に入る。著ものも沈黙の色であつた。茶を飲んでしまふ。菓子を食つてしまふ。持つてゐた本を引繰返《ひつくりかへ》して見たが読む気にもならない。葉巻を出して尻尾を咬み切つて、頭の方を火鉢の佐倉に押附《おつゝ》けて燃やす。周囲がひつそりとする。堀ばたの方の往来に足駄の音がする。丈の高い massif な障子の、すわつて肱の届くあたりに、開閉の出来るやうに、小さい戸が二枚づゝ嵌めてある。それを開けて見たが、横町へでも曲つたと見えて、人は見えない。総ての物が灰色になつて、海軍の参考品陳列館のけば/\しい新築までが、その灰色の一刷毛をなすられてゐる。兵学校の方から空車が一つ出て来て、ゆる/\と西の方へ行つた。戸を締める。電灯が附く。僕は烟草をふかしながら座敷を見て、かう思つた。広い、あかるい、綺麗な間で、なんにも目の邪魔になるものが無い。嫌な額なんぞも無い。避くべからざる遺物として床の間はあつても、掛物も花も目立たぬ程にしてある。胡坐をかいて旨い物を食つて、芸者のする事を見てゐるには、最も適当な場所だ。物質的時代の日本建築はこれだと云つても好からう、といふやうな事を思つた。此時僕のすわつてゐる処と diagonal になつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはいつて来るものがある。小さい萎びたお婆あさんの
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