津下四郎左衛門
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)津下四郎左衛門《つげしらうざゑもん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|外夷《ぐわいい》とせられてゐた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんぢやう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)恐る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)遂《つひ》に 〔consacre's〕 の群に
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 津下四郎左衛門《つげしらうざゑもん》は私の父である。(私とは誰《たれ》かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只《たゞ》聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木《さうもく》と同じく朽《く》ちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、若《も》し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其《その》一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎《よこゐへいしらう》の首を取つた男である。」
 丁度《ちやうど》世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠《せうなん》先生を知つてゐる。
 私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥《けいしやう》ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎《あうきう》ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
 此《この》禍福とそれに伴ふ晦顕《くわいけん》とがどうして生じたか。私はそれを推《お》し窮《きは》めて父の冤《ゑん》を雪《そゝ》ぎたいのである。
 徳川幕府の末造《ばつざう》に当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟《いやしく》も気節を重んずるものは皆尊王に趨《はし》つた。其時尊王には攘夷《じやうい》が附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つ宛《づゝ》のものを一つ/″\に引き離しては考へられなかつたのである。
 私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是《これ》は群集心理の上から云ふのである。
 歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧《ちゑ》のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食《くら》はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若《し》くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹《しんてつ》してゐなかつたのである。
 開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時|外夷《ぐわいい》とせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優《まさ》つた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁《さと》らなかつた一人である。
 弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某《ふくまぼう》と云ふ蘭法医《らんぱふい》に治療を託した。当時|元田永孚《もとだながざね》などと交《まじは》つて、塾を開いて程朱《ていしゆ》の学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
 嘉永五年に池辺啓太《いけべけいた》が熊本で和蘭《おらんだ》の砲術を教へた時、横井は門人を遣《や》つて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆《たかしましうはん》の弟子で、高島が嫌疑を被《かうむ》つて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
 翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節に逢《あ》はうとして長崎へ往《い》つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息《きそく》が漸《やうや》く通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣《や》つてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦《かつよしくに》と識合《しりあひ》になつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者の交《まじはり》である。慶応二年五十八歳の時横井は左平太《さへいた》、太平《たへい》の二人の姪《てつ》を米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎《いせたらう》と曰《い》ひ、弟を沼川三郎《ぬまがはさぶらう》と曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。
 智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦《くら》ますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹《しんてつ》しなかつたのは、智慧の秘密が善《よ》く保たれたのである。此|間《かん》の消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠《れんちう》して見せたのは、梧陰存稿《ごいんそんかう》の中に、井上毅《ゐのうへこはし》の書き残した岩倉具視《いはくらともみ》と玉松操《たままつみさを》との物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村|幽居《いうきよ》の「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚《おろか》だからである。
 私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を弁護するために、二箇条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
 父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰《えどがへり》は今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
 智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎《と》に角《かく》細川家の奉行職《ぶぎやうしよく》の子に生れたのに、父は岡山在の里正《りせい》の子に生れた。伊木若狭《いぎわかさ》が備中越前|鎮撫総督《ちんぶそうとく》になつた時、父は其勇戦隊の卒伍《そつご》に加はらうとするにも、幾多の抗抵に出逢つたのである。
 人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅《わづか》に持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑《いとま》あらずして已《や》んだのかも知れない。又人の智慧は遭遇によつて補足せられる。父は縦《よ》しや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦《よ》しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂《つひ》に 〔consacre's〕 の群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗《うかゞ》ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉《わた》ることを禁じ得ない。
 私の家は代々|備前《びぜん》国|上道《じやうたう》郡|浮田《うきた》村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼《ぬま》村と云つた所で、宇喜多直家《うきたなほいへ》の城址《じやうし》がある。其|城壕《しろぼり》のまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹《ひ》くものもない田舎《ゐなか》である。
 私の祖父を里正|津下市郎左衛門《つげいちらうざゑもん》と云つた。旧家に善くある習《ならひ》で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶《めと》つた。祖母の名は千代《ちよ》であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠《かご》で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母《うば》ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
 父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太《しかた》であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏《しほみうぢ》の丈《たけ》と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
 鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂《うはさ》の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞《そのことば》の中に何某《なにがし》は「正義」の人、何某は「因循《いんじゆん》」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧《むし》ろ大胆な、進取的な策であるべき筈《はず》なのに、それが因循と云はれたのは、外夷《ぐわいい》の脅迫を懾《おそ》れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄《いてき》に対して和親を議するのは奸臣《かんしん》だと云ふことが書いてあるのが、心理上に 〔re'miniscence〕 として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜《しんくわい》のやうな歴史上の人物を憎む情が潜《ひそ》んでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。
 文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪《ひたひがみ》を剃《そ》り落した。骨組の逞《たく》ましい、大柄な子が、大綰総《おほたぶさ》に結つたので天晴《あつぱれ》大人《おとな》のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告《なのり》は正義《まさよし》となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公《おほやけ》には矢張《やはり》市郎で通つてゐた。
 鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親《したし》んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛《あべもりゑ》の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
 文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲《つ》いで鹿太と呼ばれた。
 慶応三年の冬、此年頃|※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんぢやう》せられてゐた世変が漸《やうや》く成熟の期に達して、徳川|慶喜《よしのぶ》は大政《たいせい》を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主|池田越前守茂政《いけだゑちぜんのかみもちまさ》の家老に、伊木若狭《いぎわかさ》と云ふ尊王家があつて、兼《かね》て水戸の香川敬三《かがはけいざう》、因幡《いなば》の河田左久馬《かはたさくま》、長門《ながと》の桂小五郎《かつらこごらう》等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前《びつちゆうゑちぜん》鎮撫総督《ちんぶそうとく》にせられた。
 伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介《まつもとみのすけ》が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募《つの》つたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥《しりぞ》けられた。
 そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進《のろかつのしん》がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程《いくほど》もない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を闊歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の逞《たくま》しい大男で、頭に烏帽子《
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