とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍《やゝ》疑はしい。
 御牧《みまき》基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫《ぢよぢやうふ》であつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮|家職《かしよく》田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯《よはひ》せざる所となり、須磨明石《すまあかし》辺に屏居《へいきよ》して歿したらしいと云ふことである。
 薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼《いうきよ ひびせいりやうたりやすく》。兀坐愁吟送夕陽《こつざ しうぎん せきやうをおくる》。午枕清風知暑退《ごちん せいふう しよのしりぞくをしり》。暁窓残雨覚更長《げうさう ざんう かうのながきをおぼゆ》。人間褒貶事千古《じんかんのほうへん ことせんこ》。身世浮沈夢一場《しんせいのふちん ゆめいちぢやう》。設使幾回遭挫折《たとひいくくわいかざせつにあふも》。依然不変旧疎狂《いぜんかはらずきうそきやう》。早秋囚居《さうしうしうきよにて》。薫子。」印《いん》一|顆《くわ》があつて、文に「菅氏」と曰《い》つてあつた。若江氏は菅原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万《しんしうだんしいくせんまん》、歎慨有誰与我同《たんがいす たれかわれとおなじきものあらんやと》」の句を書したのを看《み》たと云ふ人がある。
        ――――――――――――――――――――
 若江修理大夫の女《むすめ》薫子の事は、既に一たび上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長《かずなが》と云ひ、曾《かつ》て諸陵頭《しよりようのかみ》たりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即《すなはち》此である。
 女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人《てんじやうびと》の家格のあつた人である。この若江氏はもと菅原氏で、その先は式部《しきぶ》権大輔《ごんのたいふ》菅原公輔の男《だん》在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後|権介《ごんのすけ》に任じ、同日院昇殿を聴《ゆる》され、その後|弾正少弼《だんじやうせうひつ》を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝《ぢげかでん》によつて知ることが出来る。更に又|野宮定功《のゝみやさだいさ》の日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介《やまとのすけ》谷森種松と筑前守《ちくぜんのかみ》鈴鹿勝芸との両人に打ち委《まか》したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘《わた》り、とりわけ漢学を能《よ》くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御|入輿《じゆよ》の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等|特《こと》の外《ほか》心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上|篤《とく》と御様子見上げ参るべき様にとの御内《おんうち》沙汰《ざた》を蒙《かうむ》り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当|滞《とゞこほ》り無く御婚儀|相済《あひすま》せられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内《ごじゆだい》には、薫子の口入が与《あづか》つて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定《じゆだいぢぢやう》の事が発表せられ、次《つい》で御召抱《おめしかゝへ》上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じやうらふ》、中※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本|実麗《さねあきら》卿記|是年《このとし》八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来|学問有志《がくもんにこゝろざしあり》、於今天晴《いまにおいてあつぱれ》宏才之|聞《きこえ》有之候間、女御《にようご》為御稽古参上|可然哉否《しかるべきやいなや》、於左大将殿|可宜御沙汰《よろしかるべきごさた》に付|被談由《だんぜられしよし》、於予|可然《しかるべく》存候間|其旨申答了《そのむねまうしこたへをはんぬ》」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文《ふみ》女御様御|素読《そどく》御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十日には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為|局口《つぼねぐち》御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋《けだ》し女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運《はこび》に行かなかつたものであらう。後《のち》失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐《さぬき》の丸亀において安らかに歿し、その遺蹟は今も尚《なほ》残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明《あきらか》にしがたい。
 私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水《でみづ》辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髪も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻《しきり》に父に向つて論議を挑《いど》んで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易《へきえき》すると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。



底本:「鴎外歴史文學集 第三巻」岩波書店
   1999(平成11)年11月25日発行
※漢詩に添えられた訓読文は略し、代えてルビ形式で書き下しを添えた。書き下しに当たっては、底本の訓読文を参考とした。
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校正:浅原庸子
2001年8月28日公開
2006年5月6日修正
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