ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時|所謂《いはゆる》御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀《はか》つた。その浪人を以て員《かず》に充《あ》てむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞《おそれ》があると慮《おもんばか》つたが故である。わたくしは此《こゝ》に堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復《また》秘することを須《もち》ゐぬものとなるかも知れない。
浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎《なかずゐうんさい》がある。
中氏は昔|瓜上《うりかみ》と称し、河内《かはち》の名族であつた。承応二年|和泉国《いづみのくに》熊取村五門に徙《うつ》つて、世郷士《よゝがうし》を以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本|根来《ねごろ》氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家《そうけ》を襲《つ》ぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、三子と共に拘引せられ、瑞雲斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄舎に死し、鼎は幽囚十年の後|赦《ゆる》された。此間《このかん》故郷熊取村には三女があつた。支配人某が世話をして、小谷村原文平の二男辰之助を迎へて、長女すみの壻《むこ》にした。鼎は出獄後、辰之助等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷《うつ》つて商業を営み、資本を耗尽《かうじん》し、後に大阪府下南河内郡|古市《ふるいち》村の誉田《こんだ》神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫、幸男で、香苗は税務|属《さかん》、武夫は台湾総督府技手、幸男は学生で史学に従事してゐる。一女は三宅典膳の孫徹男に嫁した。わたくしは幸男さんに由つて此世系を聞くことを得た。
瑞雲斎と事を与《とも》にした人に十津川産の宮太柱《みやたちゆう》がある。当時大木|主水《もんど》と称してゐた。太柱は和漢洋の三学に通ずるを以て聞えてゐた。四郎左衛門等の獄に連坐せられて、三宅島に流され、赦《しや》に遭《あ》うて帰ることを得た。太柱の子大茂さんは四谷区北伊賀町十九番地に住んでゐる。
同じく連坐せられた十津川の士|上平《うへひら》(一に錯《あやま》つて下平に作る)主税《ちから》は新島に流され、これも還ることを得た。
一瀬|主殿《とのも》も亦十津川の士で連坐せられ、八丈島に流され、後|赦《ゆる》されて帰つた。
中《なか》等の親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻《はゞ》まれたのである。
此時に当つて天道革命論と云ふ一篇の文章が志士の間に伝へられた。当時の風説に従へば、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである。其文に曰く。
「夫《そ》れ宇宙の間、山川草木人類鳥獣の属ある、猶《なほ》人の身体の四支|百骸《ひやくがい》あるがごとし。故《ゆゑ》に宇宙の理を知らざる者は、身に手足の具あるを知らざるに異なることなし。然れば宇宙有る所の諸国皆是れ一身体にして、人なく我なし。宜《よろ》しく親疎の理を明《あきらか》にし、内外同一なることを審《つまびらか》にすべし。古《いにしへ》より英明の主、威徳宇宙に溥《あまね》く、万国の帰嚮《ききやう》するに至る者は、其|胸襟《きやうきん》闊達《くわつたつ》、物として相容《あひい》れざることなく、事として取らざることなく、其仁慈化育の心、天下と異なることなきなり。此《かく》の如くにして世界の主、蒼生《さうせい》の君と云ふべきなり。若《も》し夫《そ》れ其見《そのけん》小にして、一体一物の理を知らざるは、猶全身|痿《ゐ》して疾痛|※[#「やまいだれ+可」、163−11]痒《あやう》を覚えざるごとし。百世身を終るまで開悟すること能《あた》はず。亦|憐《あはれ》むべからずや。(中略)今日の如き、実に天地|開闢《かいびやく》以来興治の機運なるが故に、海外の諸国、天理の自然に基き、開悟発明、文化の域に至らむとする者少からず。唯日本、※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さいじ》たる孤島に拠《よつ》て、(中略)行ふこと能はず。其の亡滅を取ること必せり。速《すみやか》に固陋積弊《ころうせきへい》の大害を攘除《じやうぢよ》し、天地無窮の大意に基き、偏見を看破し、宇宙第一の国とならむことを欲せずんばあるべからず。此の如き理を推窮せば、遂に大活眼《だいくわつがん》の域に至らしむる者|乎《か》。丁卯《ひのとう》三月南窓下偶書、小楠。」
わたくしは忌憚《きたん》なき文字二三百言を刪《けづ》つて此に写し出した。しかし其|体裁《ていさい》措辞《そじ》は大概|窺知《きち》せられるであらう。丁卯は慶応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍《ふえん》したものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙《せつ》である。
四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛《なげう》つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。
四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂《くわうだう》の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠《よ》る。純一は後に久時と称した。
事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚《はゞからず》、以之外之《もつてのほかの》事《こと》に候。元来暗殺等之所業、全以《すべてもつて》府藩県正籍に列《れつし》候者には不可有事《あるべからざること》に候。万一|壅閉之筋《ようへいのすぢ》を以て右等之儀に及候|哉《や》。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈《これなきはず》に候。若《もし》脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在《しんどあらせられ》候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方|屹度可相立旨《きつとあひたつべきのむね》被仰出《おほせいだされ》候事。」此文は尾佐竹|猛《たけき》さんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。
四郎左衛門が事変の前に潜《ひそ》んでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪《と》うた家の主人三宅左近も、皆備中国|連島《つらじま》の人である。典膳、号は瓦全《ぐわぜん》の嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋|云々《うんぬん》、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨《さが》御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都在の嵯峨に住せり。成程《なるほど》其家の裏に藪《やぶ》あり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫《それ》より敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町《かうぢまち》区土手三番町四番地に住んでゐる。
本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江|修理大夫《しゆりのだいぶ》の女《むすめ》ださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺害致し候者御処置之儀、如何之御儀《いかゞのおんぎ》に被為在候哉《あらせられそろや》。是は御役辺之儀故、決而可伺儀《けつしてうかゞふべきぎ》に而者無之候《てはこれなくさふら》へ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延《まんえん》せしめんとする奸謀之由申立《かんぼうのよしまうしたて》有之、尤《もつとも》、此書附|而已《のみ》に候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤《いつぽんはふんにつくる》、恐並非《おそらくはならびにひならん》)候哉共被疑《そろやともうたがはれ》候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申《まうしがたく》、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処《しよせらるべく》候へ共、右様天下衆人之|能存候《よくぞんじそろ》罪状有之者を誅戮《ちゆうりく》仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以《もつて》手を下し候者も死一等を被減候様仕度《げんぜられそろやうつかまつりたく》、如斯《かくのごとく》申上候へば、先般天誅之儀に付|彼此《かれこれ》申上候と齟齬《そご》仕、御不審|可被為在《あらせらるべく》候へ共、方今之時勢|彼之者共《かのものども》厳科に被行候《おこなはれさふら》へ者《ば》、忽《たちまち》人心離叛|仕《つかまつり》、他の変を激生|仕事《つかまつること》鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者《まうしじそつかまつりそろもの》多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共|何《いづ》れも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而《べつして》寛典を以《もつて》御赦免|被為在可然御儀《あらせられてしかるべきおんぎ》と奉存候。実に正義之人|者《は》国之元気に御座候間、一人に而《て》も戮《りく》せられ候へば、自ら元気を※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]《そこなひ》候。自ら元気を※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]候へ者《ば》、性命も随而《したがつて》滅絶仕候。此理を能々《よく/\》御考|被為在《あらせられ》候而、何卒《なにとぞ》非常回天之御処置を以《もつて》、魁《くわい》たる者も死一等を免《ゆる》され、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤《もつとも》大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者《ば》、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者《ば》、私も其事に関係仕候者に而《て》右様申上候|哉《や》と御疑も可被為《あらせらるべく》在奉存候《ぞんじたてまつりそろ》。若《もし》私にも御嫌疑被為在候へば、何等の弁解も不仕候間、速《すみやか》に私|御召捕《おめしとり》に相成、私一人|誅戮《ちゆうりく》被為遊《あそばされ》、他之者は不残《のこらず》御赦免之御処置|相願度《あひねがひたく》奉存候。若《もし》魁《くわい》たる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者《ば》、天下正義之者|忽《たちまち》朝廷を憤怨《ふんゑん》し、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘《きうらふ》幕府暴政之節|被戮《りくされ》候者祭祀迄|被仰出《おほせいだされ》候由、既に死候者は被為祭、生きたる者は被戮候|而者《ては》、御政体|不相立御儀《あひたゝざるおんぎ》と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒《なにとぞ》御処置被遊候御儀、単《ひとへ》に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎|良知《よしとも》と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相|八代《やしろ》氏の実兄尾藩|磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《はうはく》隊士松山|義根《よしね》を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡|新荘《しんしやう》村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日|発兌《はつだ》」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング