ニ切つて掛かつた。しかし横井は容易《たやす》く手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎左衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれて簓《さゝら》のやうになつてゐる。
 横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿島の額を一刀切つた。鹿島は血が目に流れ込むので、二三歩飛びしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余り烈《はげ》しかつたので、横山は上田の腕に微傷《かすりきず》を負はせたにも拘《かゝは》らず、刃《やいば》を引いて逃げ出した。上田は追ひ縋《すが》つて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。
 四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髻を掴《つか》んで首を斬つた。
 四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提《さ》げて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る/\取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀《ちがたな》と生首《なまくび》とを持つて来るのを見て、さつと道を開いた。
 此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の肩尖《かたさき》を一刀深く切り下げた。柳田は痛痍《いたで》にたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。
 下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
 上野は足が下津より早いので、殆《ほとん》ど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中《あた》つた。上野がたじろく隙《すき》に、四郎左衛門は逃げ伸びた。
 上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので、方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、隙《すき》を覗《うかゞ》つて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍《ふかで》を負つた柳田一人であつた。
 四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに、下津が師匠の骸《むくろ》の傍《かたはら》へ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首|所《ところ》を異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。
 四郎左衛門は市中を一走りに駈《か》け抜けて、田圃道《たんぼみち》に出ると、刀の血を道傍《みちばた》の小河で洗つて鞘《さや》に納め、それから道を転じて嵯峨《さが》の三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識《さうしき》になつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入《はひ》つた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬《むらさきちりめん》の袱紗《ふくさ》に包んで、大切に蔵《しま》つてあつたさうである。
 捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強《し》ひて問ひ窮《きは》めようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋《つな》がれたものがある。
 四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合せた。柳田は深痍《ふかで》に悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉《いづみ》の中瑞雲斎《なかずゐうんさい》で、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢《にふらう》した。四郎左衛門の同郷人では、海間《かいま》十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
 市中の評判は大抵同志に同情して、却《かへ》つて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称《たゝ》へられる。同志の善《よ》く秘密を守つて、形跡を晦《くら》ましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々《つじ/\》に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干《あづか》り知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯《いたづら》ではなく、全く同志を庇護《ひご》しようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥《は》いで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及びし者あり。一人は縛《ばく》に就《つき》、余党は厳しく追捕せられると云《いふ》。右|斬奸之徒《ざんかんのと》、吾|未《いま》だ其人を雖不知《しらずといへども》、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫《そ》れ平四郎が奸邪、天下|所皆知也《みなしるところなり》。初め旧幕に阿諛《あゆ》し、恐多《おそれおほ》くも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣《あまつひつぎ》を危《あやう》うせんとす。且《かつ》憂国之正士を構陥讒戮《こうかんざんりく》し、此頃|外夷《ぐわいい》に内通し、耶蘇《やそ》教を皇国に蔓布《まんぷ》することを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄《へいき》せんとす。其余之罪悪、不遑枚挙《まいきよにいとまあらず》。今王政一新、四海|属目《しよくもく》之時に当りて、如此《かくのごとき》大奸要路に横《よこたは》り、朝典を敗壊し、朝権を毀損《きそん》し、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉《ひと》しき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒《かのと》は之《これ》を寛仮すること能《あた》はず、不得已《やむをえず》斬殺に及びしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較《ひかくすべし》。是《この》故《ゆゑ》に苟《いやしくも》有義気《ぎきある》者、愉快と称せざるはなし。抑如此《そも/\かくのごとき》事変は、下情の壅塞《ようそく》せるより起る。前には言路洞開を令せらると雖《いへど》も、空名のみにして其|実《じつ》なし。忠誠|※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]直《かうちやく》之者は固陋《ころう》なりとして擯斥《ひんせき》せられ、平四郎の如き朝廷を誣罔《ぶまう》する大奸賊|登庸《とうよう》せられ、類を以て集り、政体を頽壊《たいくわい》し、外夷|愈《いよ/\》跋扈《ばつこ》せり。有志之士、不堪杞憂《きいうにたへず》、屡《しば/\》正論|※[#「言+黨」、第4水準2−88−84]議《たうぎ》すと雖、雲霧|濛々《もう/\》、毫《がう》も採用せられず。乃《すなは》ち断然|奸魁《かんくわい》を斃《たふ》して、朝廷の反省を促す。下情|壅塞《ようそく》せるより起ると云ふは即是也《すなはちこれなり》。切に願ふ、朝廷此情実を諒《りやう》とし給ひ、詔《みことのり》を下して朝野の直言を求め、奸佞《かんねい》を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明《あきらか》にし給はむことを。若夫《もしそれ》斬奸之徒は、其情を嘉《よみ》し、其実を不論《あげつらはず》、其実を推し、其名を不問《とはず》、速《すみやか》に放赦《はうしや》せられよ。果して然らば、啻《たゞ》に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速《すみやか》なるに悦服し、斬奸の挙も亦|迹《あと》を絶たむ。然らずんば奸臣|朝《てう》に満ち、乾綱《けんかう》紐《ひも》を解き、内憂外患|交《こも/″\》至り、彼《かの》衰亡の幕府と択《えら》ぶなきに至らむ。於是乎《こゝにおいてか》、憂国之士、奮然|蹶起《けつき》して、奸邪を芟夷《さんい》し、孑遺《げつゐ》なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋《つな》ぐ所以《ゆゑん》の道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、豈《あに》論ずるを須《もち》ゐんや。吾に左袒《さたん》する者は、檄《げき》の至るを待ち、叡山《えいざん》に来会せよ。共に回天の大策を可議者也《ぎすべきものなり》。明治二年春王正月、大日本憂世子。」
 此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間|令掲示《けいじせしめ》候間、猥《みだり》に取除候者あらば斬捨可申《きりすてまうすべく》候事」と書いてあつた。これは後に弾正台《だんじやうだい》に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
 横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓《ふもと》で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚《よ》ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問《きうもん》したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創《きりきず》のある上田が捕へられて見れば、海間の心づくしも徒事《とじ》になつた。
 四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其|屍《しかばね》は塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本|箕之介《みのすけ》は入牢《にふらう》し、これに与《あづか》つた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
 当時の法廷の摸様は、信憑《しんぴよう》すべき記載もなく、又其事に与《あづか》つた人も亡くなつたので、私は精《くは》しく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出《い》でなかつたさうである。私は又|薫子《にほこ》と云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髪《さげがみ》に緋《ひ》の袴《はかま》を穿《は》いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣《や》つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
 父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花《かうげ》を手向《たむ》くべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記《おぼ》えてゐぬが、父の訃音《ふいん》が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵《かたき》があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔《くちなし》の枝を敲《たゝ》き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
 父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗《へ》つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦《くわふ》孤児として残つた。啻《ただ》に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余《けいよ》の人の妻子である。日蔭ものである。
 母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。
 私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつ
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