父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太《しかた》であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏《しほみうぢ》の丈《たけ》と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
 鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂《うはさ》の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞《そのことば》の中に何某《なにがし》は「正義」の人、何某は「因循《いんじゆん》」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧《むし》ろ大胆な、進取的な策であるべき筈《はず》なのに、それが因循と云はれたのは、外夷《ぐわいい》の脅迫を懾《おそ》れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄《いてき》に対して和親を議するのは奸臣《かんしん》だと云ふことが書いてあるのが、心理上に 〔re'miniscence〕 として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜《しんくわい》のやうな歴史上の人物を憎む情が潜《ひそ》んでゐたのである。鹿太は早く大きくなり
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