スいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。
 文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪《ひたひがみ》を剃《そ》り落した。骨組の逞《たく》ましい、大柄な子が、大綰総《おほたぶさ》に結つたので天晴《あつぱれ》大人《おとな》のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告《なのり》は正義《まさよし》となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公《おほやけ》には矢張《やはり》市郎で通つてゐた。
 鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親《したし》んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛《あべもりゑ》の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
 文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲《つ》いで鹿太と呼ばれた。
 慶応三年の冬、此年頃|※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんぢやう》せられてゐた世変が漸《やうや》く成熟の期に達して、徳川|慶喜《よしのぶ》は大政《たいせい》を
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