スが、種々の障礙《しやうがい》のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏《いひわけ》をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤《ゑん》を雪《そゝ》がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以《ゆゑん》ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜《ひそ》めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮《しづ》めるには冷かな理性の力が余りに微弱であつた。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎《あいにく》其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準
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