ト遣《や》つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花《かうげ》を手向《たむ》くべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記《おぼ》えてゐぬが、父の訃音《ふいん》が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵《かたき》があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔《くちなし》の枝を敲《たゝ》き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗《へ》つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦《くわふ》孤児として残つた。啻《ただ》に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余《けいよ》の人の妻子である。日蔭ものである。
母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。
私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつ
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