齡ュの銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間《ひあはひ》から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁《かごかき》や家来を威嚇《ゐかく》するために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
 駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼《かね》て途中の異変を慮《おもんばか》つて、武芸の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を支へて寄せ附けぬやうにする。
 上田と四郎左衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎《まばら》になつた白髪を髻《もとゞり》に束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌《あわ》てた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
 上田が「それ」と、四郎左衛門に目くばせして云つた。四郎左衛門は只一打に
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