つたので、遂に横井を誤解することになつた。
横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑《つづき》四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客《せきかく》が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創《きず》のために命を隕《おと》したが、横井は刺客の袖の下を潜《くゞ》つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子|巳熊《みくま》は仇討《あだうち》に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯《ひけふ》であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫《うば》はれた。
上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗《うかゞ》つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠《かご》に乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損《しそん》じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山《こほりやま》藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復
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