わたくしは忌憚《きたん》なき文字二三百言を刪《けづ》つて此に写し出した。しかし其|体裁《ていさい》措辞《そじ》は大概|窺知《きち》せられるであらう。丁卯は慶応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍《ふえん》したものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙《せつ》である。
四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛《なげう》つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。
四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂《くわうだう》の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠《よ》る。純一は後に久時と称した。
事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚《はゞからず》、以之外之《もつてのほかの》事《こと》に候。元来暗殺等之所業、全以《すべてもつて》府藩県正籍に列《れつし》候者には不可有事《あるべからざること》に候。万一|壅閉之筋《ようへいのすぢ》を以て右等之儀に及候|哉《や》。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈《これなきはず》に候。若《もし》脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在《しんどあらせられ》候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方|屹度可相立旨《きつとあひたつべきのむね》被仰出《おほせいだされ》候事。」此文は尾佐竹|猛《たけき》さんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。
四郎左衛門が事変の前に潜《ひそ》んでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪《と》うた家の主人三宅左近も、皆備中国|連島《つらじま》の人である。典膳、号は瓦全《ぐわぜん》の嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋|云々《うんぬん》、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨《さが》御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都在の嵯峨に住せり。成程《なるほど》其家の裏に藪《やぶ》あり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫《それ》より敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町《かうぢまち》区土手三番町四番地に住んでゐる。
本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江|修理大夫《しゆりのだいぶ》の女《むすめ》ださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺害致し候者御処置之儀、如何之御儀《いかゞのおんぎ》に被為在候哉《あらせられそろや》。是は御役辺之儀故、決而可伺儀《けつしてうかゞふべきぎ》に而者無之候《てはこれなくさふら》へ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延《まんえん》せしめんとする奸謀之由申立《かんぼうのよしまうしたて》有之、尤《もつとも》、此書附|而已《のみ》に候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤《いつぽんはふんにつくる》、恐並非《おそらくはならびにひならん》)候哉共被疑《そろやともうたがはれ》候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申《まうしがたく》、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処《しよせらるべく》候へ共、右様天下衆人之|能存候《よくぞんじそろ》罪状有之者を誅戮《ちゆうりく》仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以《もつて》手を下し候者も死一等を被減候様仕度《げんぜられそろやうつかまつりたく》、如斯《かくのごとく》申上候へば、先般天誅之儀に付|彼此《かれこれ》申上候と齟齬《そご》仕、御不審|可被為在《あらせらるべく》候へ共、方今之時勢|彼之者共《かのものども》厳科に被行候《おこなはれさふら》へ者《ば》、忽《たちまち》人心離叛|仕《つかまつり》、他の変を激生|仕事《つかまつること》鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者《まうしじそつかまつりそろもの》多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共|何《いづ》れも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而《べつして》寛典を以《もつて》御赦免|被為在可然御儀《あらせられてしかるべきおんぎ》と奉存候。実に正義之人|者《は》国之元気に御座候間、一人に而《て》も戮《りく》せられ候へば、自ら元気を※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]《そこなひ》候。自ら元気を※[#「爿+戈
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