「》し、所謂《いはゆる》万機一新の朝廷の措置に、動《やゝ》もすれば因循の形迹《けいせき》が見《あらは》れ、外国人が分外《ぶんぐわい》の尊敬を受けるのを慊《あきたら》ぬことに思つた。それは議定《ぎぢやう》参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それが漸《やうや》く施政の上に発露して来たからである。
或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕《とも》に輦轂《れんこく》の下《もと》に住んで、親しく政府の施設を見ようと云ふのである。二人の心底には、秕政《ひせい》の根本を窮《きは》めて、君側《くんそく》の奸《かん》を発見したら、直《たゞ》ちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時から萌《きざ》してゐた。
二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁《きよくわい》として映じたのは、三月に徴士《ちようし》となつて熊本から入京し、制度局の判事を経て、参与に進んだ横井平四郎であつた。
横井は久しく越前侯|松平慶永《まつだひらよしなが》の親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外《そのほか》大阪の城代|土屋采女正寅直《つちやうねめのしやうともなほ》の用人|大久保要《おほくぼかなめ》に由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭《みとなりあき》に上書したこともある。世間では其論策の内容を錯《あやま》り伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督《きりすと》教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。
公武合体論者の横井が、純粋な尊王家の目から視《み》て、灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別に由《よ》つて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は政治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜《げうしゆん》の時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職《じんくんなんぞてんしよくなる》。代天治百姓《てんにかはりてひやくせいををさむ》。自非天徳人《てんとくのひとにあらざるよりは》。何以※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]天命《なにをもつてかてんめいにかなはん》。所以尭巽舜《げうのしゆんにゆづりしゆゑん》。是真為大聖《これまことにたいせいたり》。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗《すこぶ》る有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教《せいやうにせいけうあり》。其教本上帝《そのをしへはじやうていをもととす》。戒律以導人《かいりつもてひとをみちびき》。勧善懲悪戻《ぜんをすすめてあくれいをこらしむ》。上下信奉之《しやうかこれをしんぽうし》。因教立法制《をしへによりてはふせいをたつ》。治教不相離《ちとけうあひはなれず》。是以人奮励《ここをもつてひとふんれいす》。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の末解にも、「嗟乎唐虞道《あゝたうぐのみち》、明白如朝霽《めいはくなることあさのはるるがごとし》、捨之不知用《これをすててもちふることをしらず》、甘為西洋隷《あまんじてせいやうのれいとなる》」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを憤つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。
横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑《つづき》四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客《せきかく》が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創《きず》のために命を隕《おと》したが、横井は刺客の袖の下を潜《くゞ》つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子|巳熊《みくま》は仇討《あだうち》に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯《ひけふ》であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫《うば》はれた。
上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗《うかゞ》つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠《かご》に乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損《しそん》じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山《こほりやま》藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復
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