V丞《かしままたのじよう》、跡《あと》の二人は皆|十津川《とつがは》の人で、前岡|力雄《りきを》、中井|刀禰雄《とねを》と云つた。
 四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都|粟田《あはた》白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂|斬奸《ざんかん》の手筈《てはず》を相談した。然るに生憎《あいにく》横井は腸を傷《いた》めて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊《はいくわい》して窺《うかゞ》ふに、大きい文箱《ふばこ》を持つた太政官《だじやうくわん》の使が頻《しきり》に往反《わうへん》するばかりである。
 同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳を執《と》つてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人の力を以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。
 歳暮に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束が極《き》まつた時、四郎左衛門は訣別《けつべつ》のために故郷へ立つた。
 四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を遣《や》つて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園《ぎをん》新地の揚屋《あげや》で催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、芸者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり金を遣《つか》はせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴を脅《おど》して見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々の交《まじはり》は正義の交である。君国に捧《さゝ》ぐべき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾《かきん》を顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫に遺《のこ》してはならない。自分だけは同意が出来ないと云つた。
 大晦日《おおみそか》の雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆|揃《そろ》つて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめの丈《たけ》には、兎《と》に角《かく》急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。
 杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。只《たゞ》「坊主|好《よ》く来た」と云つて、微笑《ほゝゑ》みつゝ頭を撫《な》でゝくれたことだけを、微《かす》かに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留《とうりう》が長くなるので、一寸《ちよつと》逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
 明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社《ごりやうしや》の南まで来掛かつた。駕籠の両脇には門人横山|助之丞《すけのじよう》と下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取《ざうりとり》が附いて供をしてゐる。忽《たちま》ち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間《ひあはひ》から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁《かごかき》や家来を威嚇《ゐかく》するために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
 駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼《かね》て途中の異変を慮《おもんばか》つて、武芸の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を支へて寄せ附けぬやうにする。
 上田と四郎左衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎《まばら》になつた白髪を髻《もとゞり》に束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌《あわ》てた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
 上田が「それ」と、四郎左衛門に目くばせして云つた。四郎左衛門は只一打に
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