スいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。
 文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪《ひたひがみ》を剃《そ》り落した。骨組の逞《たく》ましい、大柄な子が、大綰総《おほたぶさ》に結つたので天晴《あつぱれ》大人《おとな》のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告《なのり》は正義《まさよし》となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公《おほやけ》には矢張《やはり》市郎で通つてゐた。
 鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親《したし》んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛《あべもりゑ》の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
 文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲《つ》いで鹿太と呼ばれた。
 慶応三年の冬、此年頃|※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんぢやう》せられてゐた世変が漸《やうや》く成熟の期に達して、徳川|慶喜《よしのぶ》は大政《たいせい》を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主|池田越前守茂政《いけだゑちぜんのかみもちまさ》の家老に、伊木若狭《いぎわかさ》と云ふ尊王家があつて、兼《かね》て水戸の香川敬三《かがはけいざう》、因幡《いなば》の河田左久馬《かはたさくま》、長門《ながと》の桂小五郎《かつらこごらう》等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前《びつちゆうゑちぜん》鎮撫総督《ちんぶそうとく》にせられた。
 伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介《まつもとみのすけ》が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募《つの》つたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥《しりぞ》けられた。
 そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進《のろかつのしん》がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程《いくほど》もない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を闊歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の逞《たくま》しい大男で、頭に烏帽子《
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