鰍ェあつたのかも知れない。父は縦《よ》しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂《つひ》に 〔consacre's〕 の群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗《うかゞ》ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉《わた》ることを禁じ得ない。
 私の家は代々|備前《びぜん》国|上道《じやうたう》郡|浮田《うきた》村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼《ぬま》村と云つた所で、宇喜多直家《うきたなほいへ》の城址《じやうし》がある。其|城壕《しろぼり》のまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹《ひ》くものもない田舎《ゐなか》である。
 私の祖父を里正|津下市郎左衛門《つげいちらうざゑもん》と云つた。旧家に善くある習《ならひ》で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶《めと》つた。祖母の名は千代《ちよ》であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠《かご》で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母《うば》ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
 父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太《しかた》であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏《しほみうぢ》の丈《たけ》と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
 鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂《うはさ》の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞《そのことば》の中に何某《なにがし》は「正義」の人、何某は「因循《いんじゆん》」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧《むし》ろ大胆な、進取的な策であるべき筈《はず》なのに、それが因循と云はれたのは、外夷《ぐわいい》の脅迫を懾《おそ》れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄《いてき》に対して和親を議するのは奸臣《かんしん》だと云ふことが書いてあるのが、心理上に 〔re'miniscence〕 として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜《しんくわい》のやうな歴史上の人物を憎む情が潜《ひそ》んでゐたのである。鹿太は早く大きくなり
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