、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後|権介《ごんのすけ》に任じ、同日院昇殿を聴《ゆる》され、その後|弾正少弼《だんじやうせうひつ》を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝《ぢげかでん》によつて知ることが出来る。更に又|野宮定功《のゝみやさだいさ》の日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介《やまとのすけ》谷森種松と筑前守《ちくぜんのかみ》鈴鹿勝芸との両人に打ち委《まか》したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘《わた》り、とりわけ漢学を能《よ》くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御|入輿《じゆよ》の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等|特《こと》の外《ほか》心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上|篤《とく》と御様子見上げ参るべき様にとの御内《おんうち》沙汰《ざた》を蒙《かうむ》り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当|滞《とゞこほ》り無く御婚儀|相済《あひすま》せられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内《ごじゆだい》には、薫子の口入が与《あづか》つて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定《じゆだいぢぢやう》の事が発表せられ、次《
前へ 次へ
全29ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング