W−84]議《たうぎ》すと雖、雲霧|濛々《もう/\》、毫《がう》も採用せられず。乃《すなは》ち断然|奸魁《かんくわい》を斃《たふ》して、朝廷の反省を促す。下情|壅塞《ようそく》せるより起ると云ふは即是也《すなはちこれなり》。切に願ふ、朝廷此情実を諒《りやう》とし給ひ、詔《みことのり》を下して朝野の直言を求め、奸佞《かんねい》を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明《あきらか》にし給はむことを。若夫《もしそれ》斬奸之徒は、其情を嘉《よみ》し、其実を不論《あげつらはず》、其実を推し、其名を不問《とはず》、速《すみやか》に放赦《はうしや》せられよ。果して然らば、啻《たゞ》に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速《すみやか》なるに悦服し、斬奸の挙も亦|迹《あと》を絶たむ。然らずんば奸臣|朝《てう》に満ち、乾綱《けんかう》紐《ひも》を解き、内憂外患|交《こも/″\》至り、彼《かの》衰亡の幕府と択《えら》ぶなきに至らむ。於是乎《こゝにおいてか》、憂国之士、奮然|蹶起《けつき》して、奸邪を芟夷《さんい》し、孑遺《げつゐ》なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋《つな》ぐ所以《ゆゑん》の道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、豈《あに》論ずるを須《もち》ゐんや。吾に左袒《さたん》する者は、檄《げき》の至るを待ち、叡山《えいざん》に来会せよ。共に回天の大策を可議者也《ぎすべきものなり》。明治二年春王正月、大日本憂世子。」
此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間|令掲示《けいじせしめ》候間、猥《みだり》に取除候者あらば斬捨可申《きりすてまうすべく》候事」と書いてあつた。これは後に弾正台《だんじやうだい》に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓《ふもと》で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚《よ》ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問《きうもん》したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創《きりきず》
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