スはら》へ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首|所《ところ》を異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。
 四郎左衛門は市中を一走りに駈《か》け抜けて、田圃道《たんぼみち》に出ると、刀の血を道傍《みちばた》の小河で洗つて鞘《さや》に納め、それから道を転じて嵯峨《さが》の三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識《さうしき》になつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入《はひ》つた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬《むらさきちりめん》の袱紗《ふくさ》に包んで、大切に蔵《しま》つてあつたさうである。
 捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強《し》ひて問ひ窮《きは》めようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋《つな》がれたものがある。
 四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合せた。柳田は深痍《ふかで》に悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉《いづみ》の中瑞雲斎《なかずゐうんさい》で、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢《にふらう》した。四郎左衛門の同郷人では、海間《かいま》十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
 市中の評判は大抵同志に同情して、却《かへ》つて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称《たゝ》へられる。同志の善《よ》く秘密を守つて、形跡を晦《くら》ましたのが驚歎せられる。それには横井の殺さ
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