テりしゆゑん》。是真為大聖《これまことにたいせいたり》。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗《すこぶ》る有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教《せいやうにせいけうあり》。其教本上帝《そのをしへはじやうていをもととす》。戒律以導人《かいりつもてひとをみちびき》。勧善懲悪戻《ぜんをすすめてあくれいをこらしむ》。上下信奉之《しやうかこれをしんぽうし》。因教立法制《をしへによりてはふせいをたつ》。治教不相離《ちとけうあひはなれず》。是以人奮励《ここをもつてひとふんれいす》。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の末解にも、「嗟乎唐虞道《あゝたうぐのみち》、明白如朝霽《めいはくなることあさのはるるがごとし》、捨之不知用《これをすててもちふることをしらず》、甘為西洋隷《あまんじてせいやうのれいとなる》」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを憤つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。
 横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑《つづき》四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客《せきかく》が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創《きず》のために命を隕《おと》したが、横井は刺客の袖の下を潜《くゞ》つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子|巳熊《みくま》は仇討《あだうち》に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯《ひけふ》であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫《うば》はれた。
 上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗《うかゞ》つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠《かご》に乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損《しそん》じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山《こほりやま》藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復
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