すると云われたのなら、よしやそう云う本に文明史上の価値はあるとしても、遠慮が足りなかったというだけの事はあるだろう。
 しかし所謂《いわゆる》危険なる洋書とはそんな物を斥《さ》して言っているのではない。
 ロシア文学で Tolstoi《トルストイ》 のある文章を嫌うのは、無政府党が「我信仰」や「我懺悔《わがざんげ》」を主義宣伝に応用しているから、一応|尤《もっと》もだとも云われよう。小説や脚本には、世界中どこの国でも、格別けむたがっているような作はない。それを危険だとしてある。「戦争と平和」で、戦争に勝つのはえらい大将やえらい参謀が勝たせるのではなくて、勇猛な兵卒が勝たせるのだとしてあれば、この観察の土台になっている個人主義を危険だとするのである。そんな風に穿鑿《せんさく》をすると同時に、老伯が素食《そしょく》をするのは、土地で好い牛肉が得られないからだと、何十年と継続している伯の原始的生活をも、猜疑《さいぎ》の目を以て視る。
 Dostojewski《ドストエウスキイ》 は「罪と償」で、社会に何の役にも立たない慾ばり婆々《ばば》あに金を持たせて置くには及ばないと云って殺す主人公を書いたから、所有権を尊重していない。これも危険である。それにあの男の作は癲癇《てんかん》病《や》みの譫語《うわこと》に過ぎない。Gorki《ゴルキイ》 は放浪生活にあこがれた作ばかりをしていて、社会の秩序を踏み附けている。これも危険である。それに実生活の上でも、籍を社会党に置いている。Artzibaschew《アルチバシエフ》 は個人主義の元祖 Stirner《スチルネル》 を崇拝していて、革命家を主人公にした小説を多く出す。これも危険である。それに肺病で体が悪くなって、精神までが変調を来している。
 フランスとベルジックとの文学で、Maupassant《モオパッサン》 の書いたものには、毒を以て毒を制するトルストイ伯の評のとおりに、なんのために書いたのだという趣意がない。無理想で、amoral《アモラル》 である。狙《ねら》わずに鉄砲を打つほど危険な事はない。あの男はとうとう追躡《ついじょう》妄想で自殺してしまった。Maeterlinck《マアテルリンク》 は Monna《モンナ》 Vanna《ワンナ》 のような奸通劇《かんつうげき》を書く。危険極まる。
 イタリアの文学で、D'Annu
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