あるメモアルなんぞといふものは、用心して讀むべきものであらう。意識して筆を曲げたものがあるとすれば、固より沙汰の限である。縱令それまでゞなくとも、記憶は餘り確なものではない。誰の心にも自分の過去を辯護し修正しようと思ふ傾向はあるから、意識せずに先づ自ら欺いて、そして人を欺くことがある。
何を話したか。
私は小説を書いてゐるのではないといふことを、先づ十分意識の上に喚び起して置かねばならない。私は亡くなられた人に對して、大いに、大いに謹愼しなくてはならない。
さてさうなつて見ると、私の記憶は穴だらけで、到底對話を組み立てることは出來ない。
長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐると話された。
洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐ
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