を着てすわつてをられた。私の目に移つた人は骨格の逞しい偉丈夫である。浮雲に心理状態がゑがかれてゐるやうな、貧血な、神經質な男ではない。平凡にゑがかれてゐるやうな、所謂賃譯をして暮しの助にしてゐる小役人らしい男でもない。
 話をする。私には勿論隔はない。先方も遠慮はしない。丸で初て逢つた人のやうではない。何を話したか。
 私は、此の自ら設けた問に答へるに先だつて、言つて置きたい事がある。こゝで私は此人を、どんなにえらくでも、どんなに詰まらなくでもして見せることが出來る。此人をえらくすると同時に、私がそれにおぶさつて、失敬だが、それを踏臺にしてえらがることも出來る。此人を詰まらなくして、私のえらさ加減を引立たせることも出來る。ドラマチカルな、巧妙な對話を組み立てることも出來る。そして此人はそれに對して何の故障を言ふことも出來ない。反駁が出來ない。取消が出されない。
 これと同じ場合に、言はれたり書かれたりしたことが、世の中には澤山あるだらうと思ふ。何事でも、それを見聞したといふ人の傳へは隨分たしかな筈である。自ら其局に當つたといふ人の言ふことなら、一層確な筈である。
 併しどこの國にも澤山
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