し丸で交通がないのではない。Gorjki を譯するのに、獨逸譯を參考したいと云つて、借りによこされたから、私は人に本を貸すことは大嫌なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亞人が横濱で雜誌を發刊するのに、私の舞姫を露語に譯して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひによこされたことがある。私は直に差支はないと云つて遣つた。程なく雜誌に舞姫が出ることになると、その雜誌社から、わざ/\敬意を表するといふ電報が來た。次いで雜誌を十部ばかり送つて來た。私は餘り鄭重にせられて恐縮した。そんな風にしてゐるうちに、ある日長谷川辰之助君は突然私の千駄木の家へ遣つて來られた。
 前年の事ではあるが、何月何日であつたか記憶しない。日記に書いてある筈だと思つて、繰返して去年ぢゆうの日記を見たが、書いてない。こんな人の珍らしく來られたのが書いてないやうではといふので、私の日記は私の信用を失つたのである。
 私は大抵お客を居間に通す。その日に限つて、どうかして居間が足の踏みどころもないやうに散らかつてゐたので、裏庭の方へ向いた部屋に通した。
 急いで逢ひに出て見ると、長谷川辰之助君は青み掛かつた洋服
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