。常の日の内にゐる時間も、休日も、祭日もお客のお相手をする。人を尋ねる餘裕はない。
私はこんな風に考へてゐる。尤も私だとて、こんな風に考へてゐるのを立派な事だとは思つてゐない。こんな風に考へざることを得ないのは、實に私の拙なのである。
私の時間の遣操に拙なのは、金の遣操に拙なのと同一である。拙は藏するが常である。併し拙を藏するのも、金を藏すると同一で、氣苦勞である。今は告白流行の時代である。仍て私は私の拙を告白するのである。
長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとう/\尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。
浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄藏君が春の屋おぼろで、矢崎鎭四郎君が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之助君も二葉亭四迷である。あんな月竝の名を署して著述する時であるのに、あんなものを書かれたのだ。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]の名を著述に署することはどこの國にもある。昔もある。今もある。後世
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