か自分で自分を縛るやうな心持がして不愉快である。それも嫌だ。
あるときお客の淘汰をしようとした。お客の話の中で一番面白くないのは、何か書け、書けません、是非書けの押問答である。それを遣るに極まつてゐる新聞雜誌の記者諸君丈を謝絶して見ようと試みた。取次に教へてある挨拶はかうである。お話に入らつしやつたのなら、どうぞお通り下さい。新聞社や雜誌社の御用で入らつしやつたのならお斷申します。先づこんな風に言はせるのである。
併し此淘汰法は全く失敗に終つた。個人の用だと云つてお通りになる。自分の心得の爲めに承知して置きたいといふので、色々な事を聞いて歸られる。それが矢張何かに出るのである。
新聞の探訪は手段を選んでは出來ない。訪問記者だつて殆ど同じ道理であらう。その位な事を遣られるのは無理はない。
その外素直に歸つた人は憤懣してゐるのだから、飛んだ處で、其鬱憤を洩すこともある。人の名譽とか聲價とかといふやうなものは活板で極められる活板時代であるから、新聞雜誌の記者諸君を片端から怒らせるのは、丸で自分で自分の顏に泥を塗るやうなものである。お客の淘汰は所詮出來ない。依然どなたにでもお目に掛かる
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