今掘り出され掛かつてゐるやうだ。
死んで葬られるのは當前とも言はれる。生きてゐて葬られるのは多少氣の毒である。生きてぴん/\してゐる奴を、穴を掘つて押し落して、上から土を掛けることは珍らしくない。
自分が頭を出すために人を生埋にすることがある。頭を出す位の人なら、人を生埋にしなくても頭を出すに差支はない。それを人を生埋にしなければならないやうに思ふのは、目が昏んでゐるのかも知れない。併し人は皆達觀者ではない。著述家だつて目の昏んでゐるのがあるのはしかたがない。
人を生埋にすることにばかり骨を折つてゐて、自分の頭はどうしても上がらないのもあるやうだ。こんなのは御苦勞千萬である。
西洋人は人を葬るとき、土は汝の上に輕かれと云ふ。生埋にしたとき、頭の上の土が餘り輕いと、又ひよつくり頭を出すことがある。
長谷川辰之助君などもこんな風にレサアレクシヨンを遣られた一人かと思ふ。
平凡が出た。
私は又逢ひたいやうな氣がした。併し此人の所謂自然主義の牛のよだれが當つて、「しゆん」外れの人に「しゆん」が又循つて來たのが、即ち葬られて更に復活したのが、却つて一層私を尋ねて行きにくゝしたやうな心持がした。
流行る人の處へは猫も杓子も尋ねて行く。何も私が尋ねて行かなくても好いと思ふ。かういふ考も、私を逢ひたい人に逢はせないでしまふ一の原因になつてゐる。
中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼んで馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ねて行つたことがない。それが不治の病になつたと聞いて、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有半の大評判で、知らない人がぞろ/\慰問に出掛けるやうになつた。私はとう/\行かずにしまつた。尾崎徳太郎君も私の内で雲中語といふ合評をする席へ、一度來てくれたことがある。これも不治の病になつた。今度は私も奮發して、横寺町の二階へ逢ひに行つた。此人は色の淺黒い、氣の利いた好男子で、不斷身綺麗にしてゐる人のやうに思つてゐたが、病氣の診斷が極まつて餘程立つてからであつたにも拘はらず、果して少しも病人臭くはしてゐなかつた。愉快に話をした。菓子を出して殘念ながらお相伴は出來ないと云つた。私は今でも、あの時行つて逢つて置いて好かつたと思つてゐる。
話が横道に這入つたが、長谷川辰之助君を尋ねることは思ひながら出來ずにゐて、月日が立つたのである。
併
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング