し丸で交通がないのではない。Gorjki を譯するのに、獨逸譯を參考したいと云つて、借りによこされたから、私は人に本を貸すことは大嫌なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亞人が横濱で雜誌を發刊するのに、私の舞姫を露語に譯して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひによこされたことがある。私は直に差支はないと云つて遣つた。程なく雜誌に舞姫が出ることになると、その雜誌社から、わざ/\敬意を表するといふ電報が來た。次いで雜誌を十部ばかり送つて來た。私は餘り鄭重にせられて恐縮した。そんな風にしてゐるうちに、ある日長谷川辰之助君は突然私の千駄木の家へ遣つて來られた。
 前年の事ではあるが、何月何日であつたか記憶しない。日記に書いてある筈だと思つて、繰返して去年ぢゆうの日記を見たが、書いてない。こんな人の珍らしく來られたのが書いてないやうではといふので、私の日記は私の信用を失つたのである。
 私は大抵お客を居間に通す。その日に限つて、どうかして居間が足の踏みどころもないやうに散らかつてゐたので、裏庭の方へ向いた部屋に通した。
 急いで逢ひに出て見ると、長谷川辰之助君は青み掛かつた洋服を着てすわつてをられた。私の目に移つた人は骨格の逞しい偉丈夫である。浮雲に心理状態がゑがかれてゐるやうな、貧血な、神經質な男ではない。平凡にゑがかれてゐるやうな、所謂賃譯をして暮しの助にしてゐる小役人らしい男でもない。
 話をする。私には勿論隔はない。先方も遠慮はしない。丸で初て逢つた人のやうではない。何を話したか。
 私は、此の自ら設けた問に答へるに先だつて、言つて置きたい事がある。こゝで私は此人を、どんなにえらくでも、どんなに詰まらなくでもして見せることが出來る。此人をえらくすると同時に、私がそれにおぶさつて、失敬だが、それを踏臺にしてえらがることも出來る。此人を詰まらなくして、私のえらさ加減を引立たせることも出來る。ドラマチカルな、巧妙な對話を組み立てることも出來る。そして此人はそれに對して何の故障を言ふことも出來ない。反駁が出來ない。取消が出されない。
 これと同じ場合に、言はれたり書かれたりしたことが、世の中には澤山あるだらうと思ふ。何事でも、それを見聞したといふ人の傳へは隨分たしかな筈である。自ら其局に當つたといふ人の言ふことなら、一層確な筈である。
 併しどこの國にも澤山
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