ている。
主人はわざと間を置いて、二人を等分に見て話し続けた。
「ところがその人間の頭が辮子《べんつう》でない。女なのだ。それが分かった時、小川君はそれまで交っていた危険と云う念が全く無くなって、好奇心が純粋の好奇心になったそうだ。これはさもありそうな事だね。※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《にい》と声に力を入れて呼んで見たが、ただ慄えているばかりだ。小川君は※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]の上へ飛び上がった。女の肩に手を掛けて、引き起して、窓の方へ向けて見ると、まだ二十《はたち》にならない位な、すばらしい別品だったと云うのだ。」
主人はまた間を置いて二人を見較べた。そしてゆっくり酒を一杯飲んだ。「これから先は端折《はしょ》って話すよ。これまでのような珍らしい話とは違って、いつ誰がどこで遣っても同じ事だからね。一体支那人はいざとなると、覚悟が好い。首を斬《き》られる時なぞも、尋常に斬られる。女は尋常に服従したそうだ。無論小川君の好嫖致《はおぴやおち》な所も、女の諦念《あきらめ》を容易ならしめたには相違ないさ。そこで女の服従したのは好いが、小川君は自分の顔を見覚えられたのがこわくなったのだね。」ここまで話して、主人は小川の顔をちょっと見た。赤かった顔が蒼《あお》くなっている。
「もうよし給え」と云った小川の声は、小さく、異様に空洞《うつろ》に響いた。
「うん。よすよよすよ。もうおしまいになったじゃないか。なんでもその女には折々土人が食物をこっそり窓から運んでいたのだ。女はそれを夜なかに食ったり、甑《かめ》の中へ便を足したりすることになっていたのを、小川君が聞き附けたのだね。顔が綺麗だから、兵隊に見せまいと思って、隠して置いたのだろう。羊の毛皮を二枚着ていたそうだが、それで粟稈の中に潜っていたにしても、※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かん》は焚《た》かれないから、随分寒かっただろうね。支那人は辛抱強いことは無類だよ。兎に角その女はそれきり粟稈の中から起きずにしまったそうだ。」主人は最後の一句を、特別にゆっくり言った。
違棚の上でしつっこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴った。
「もう一時だ。寝ようかな。」こう云ったのは、平山であった。
主客は暫《しばら》くぐずぐずしていたが、それからはどうした事か、話が栄《は》えない。と
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